美術館は魯山人、博物館は広島県の神社の宝物展。
このブログ一応文化がテーマなので、武道ばかりではなく、たまには、というわけではないが。
ところで、この魯山人、“器”のために、それに合わせて家から何から全て建て替えるなどという逸話を持ち、徹底した“おもてなし”を追求した人らしい。昔、私は絵の勉強をしながら、芸術とは何の為にあるのだろうと、悩んだ時期があった。絵を壁に掛けたからといって何が変わるわけでも無し、良い茶碗で飯を食べたからといって味が変わるわけでも無し、と全てに意味を感じなくなっていた。
しかし、それは間違いで、絵を掛ける事によって、その部屋の空気を作り出し、茶碗の力で食物を演出する。つまり、芸術とは、「場」を作り出し、見る者に空間を与える。水の絵が掛かっていれば、そこに水の爽やかさを持ち込む事が出来、キュビズムのような一見風変わりな絵はその空間の全てを平面にしてしまうような力を持つ。そして、器が食を行う空間、つまり味をも作り出す。これは、一流料亭のメニューでもトイレで食べたらうまさが半減する事を、想像するだけで分かるだろう。器もいいものが味を作る事は可能である。人間は感情の生き物だ。そのことに気付いたのは、ここ2、3年のことである
。だからこそ、魯山人は、その“器”に支配されない為の建築、また、その“器”を埋没させない為の部屋を必要とし、その中でこそ食が生きてくると考えたのだろう。
そして、この芸術の作り出す「場」は作り手の力量と共に、受け取り側の力量をも試されるのである。
これは、武道に於ける相手の力量と自分の力量との差を構えによって見極める“観の眼”に酷似している。
恐らく魯山人は芸術家としての“観の眼”を持った芸術の達人であったのであろう。


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