2010年11月30日火曜日

學而不思則罔思而不學則殆

學而不思則罔思而不學則殆

学びて思はざれば則ち罔(クラ)し
思ひて学ばざれば則ち殆(アヤウ)し

毎日が勉強です。
学んでも、自分で考え、自分の中で消化出来なければ、
それは、人の情報をトレースしただけで、只のはりぼてに過ぎず、
考えるばかりで、学ぶことをしなければ、
独りよがりの思想が出来上がるに過ぎません。
しかし、学び且つ考え且つ学び且つ考えれば、
情報が智恵になり、思いが形になる。

学(まなぶ)は、「まねる」ことから来ているといいます。
先人の知恵を学び、その意味を理解するまで、
ひたすら考え抜く。
時には脱線もします。でもそれでいいんです。

自分を「型」に嵌め、その「型」の中でもがき、
「型」から出ようとしながらも、
自分が「型」そのものになった時、
人は「型」から自由になり、世界が無限に広がるのです。

「学ぶ」こと、「思う」こと、その意味は深く果てしない。

2010年11月15日月曜日

「頑張る」というパラドックス(補足)

昨日、私は「頑張る」ことに含まれる自己矛盾を指摘するために、
空手の形競技を引き合いに出し、
現在の空手の形はパントマイム合戦に陥っていると指摘した。
これはあくまでも「頑張る」中で起こる問題点の
象徴として提示しただけで、
決して空手の形競技を全否定したものではないことだけは、
断っておきたい。
空手の競技種目が組手のみだとしたら、恐らく今ほど形を
熱心にやる空手家は多くなかったであろう。
剣道や柔道がそうであるように。

空手家は「形」を稽古するものであるという認識のお陰で
私は空手の深遠さに触れることが出来た。

物事には必ず、長所と短所が混在する。
モノの欠点をあげつらって、その存在自体を全否定することほど
馬鹿げていることはない。
良いか悪いかの二元論で判断することは、
単純で簡単だが、それでは思考停止状態になり、
新たな発展や発見は望めない。

昔の技術も今の技術も素晴らしい事は沢山あるし、
欠点も互いに存在する。
要は、上手に取捨選択すれば良いだけの話である。

2010年11月14日日曜日

「頑張る」というパラドックス

「頑張る」、このことに対して疑問を持ったことのある方はおられるだろうか?
「頑張る」に対する疑問とは何か?

実は、私は最近この「頑張る」という行為に対し、
非常に疑問を感じ出したのである。
どういうことか?
あなたは「今、すごく頑張ってますっっ」と思っている時、本当に頑張っているのか?
実は、それは勘違いに過ぎないのではないか?
「失礼な!!」と思われる方もいらっしゃることだろう。

しかし、最近私は思うのだ、「それは、本当に外的な圧力による頑張りなのか?
自分で作り出した圧力に対して一人で頑張っていると思い込んでいるのではないか?」

以前このブログで、私は、突きを打つ時、力を抜けば抜くほど威力の上がる突き、というのを説明したことがある。これは、本当に力がゼロになっているのではなく、屈筋、つまり、「突き」という腕を伸ばす行為と逆の、曲げる筋肉の力を抜くことによって、抵抗なく腕を伸ばせるようにすることである。
説明だけ読むと、何だ当たり前じゃないか、と思うが、実はこのことが出来る人間というのは、特別な訓練を受けた者か、持って生まれた天性の才能に恵まれた者に限られている。

例えば、何もない空間で、手を前に出し、壁を押すような形で前に進んだとする。
皆、ただ前に進むだけであるだろうし、この行為を汗水垂らして行う者など皆無であろう。
しかし、ここで「これは重い物を押すトレーニングです。力を込めて頑張って前に進んで下さい」と指定したとたん、恐らくほとんどの人が全身に力を込めて、歯を食いしばって行うのではないであろうか。
これこそ人間の身体の「頑張る」ことへの勘違いである。

そこには何もないのだ。力を込める必要性などどこにもない。
しかし、体は経験上、こう思っている。力を入れること、つまり、力むことが「頑張る」ことであり、実際に役に立つことであり、力を出さないことは、怠け者のやることで何の用もなさないと。だから、何も無い空間でも力を入れてしまう。

力を込めるも何もそのまま進んだ方がいいし、物を押すトレーニングなら、実際に重い物を押す方が良い。それも如何に楽に押せるかコツを探すように。だから、この「何もない空間で力を込めて進む」トレーニングなど、物を押すという行為に対して、百害あって一利もないのである。

しかし、これをくそまじめに真剣に取り組み、なおかつ、競技にまでしてしまったモノがある。
それが空手の「形」である。
恐らく、空手経験者の方は、一度は、いや、耳にたこができるほど、師範や先輩に言われたのではなかろうか「形を行う時には相手を想定して、倒すつもりで行え!!」と。そして、精一杯力を込めて突き蹴りを繰り返してきたのではないだろうか。
空手の形は、力を込め、スピードに乗せ、大きな気合いを入れ、迫力が出れば出るほど、素晴らしい形であると評される(勿論、肩や背中に力が入り過ぎだとか注意を受けることはある)。
実は、これこそが、「何も無い空間を押して歩く」行為にも関わらず、力を入れて如何に本当に壁を押しているか見せる行為である。
この勘違いにより、空手の形の多くはパントマイムと化しているのである。

ある物体が進む時、外的な抵抗がない限り、ただひたすら進むだけである。
外的な抵抗、例えば壁などに、ぶつかった時初めてその物体に加えられたエネルギーがはっきりする。だから、進んでいる物体に外的な抵抗がなければ、人間はその物体のもつエネルギー(衝撃力)を理解し得ない。
例えばこんな経験は無いだろうか?TVなどでボクサーが行うシャドーを見てそれがどれくらいの強さなのかは分からなかったが、ミットやサウンドバッグなどを叩く姿を見て初めてその威力の凄さを理解したという。
また、ある物体がゆっくり目の前を通り過ぎた時は何とも思わないが、ドスンッと地面に叩き付けられ、それが砲丸の球であった事を理解した時に、初めてその恐ろしさに気付くという。
(空手の試割りがそれである。空手家が何枚もの瓦や、何本ものバットを折ることによって、初めて技の威力を見る者に知らしめることが出来る、実際に出来るまでは、特に空手を知らないものは、その技に何枚もの瓦を割るほどの威力があることを理解出来ない。)

結局、人間が物体のエネルギー(衝撃力)を実感するのは、物体に外的な抵抗が加わった時のみである。

だから、空手の「形」は、その技の威力を目に見えるようにするため、自分の中で抵抗を作り、衝撃力を演出しているに過ぎないのである。その為、「形」のまま技を繰り出すと相手には全く通じない技となってしまい、形と組手は別物、という結論しか出ないのである。
当たり前である。一生懸命、アクセルを踏みながらも、同時に自分でブレーキも踏み込んでいるのであるから。

実際に使える「形」は、「何も無い空間を押して歩く」行為が基本とならなければならないのであるから、全く迫力もなく、衝撃力も見る者に伝わらないものにならなければならない。(出るとしたら、伸びきった腕や脚が急激にビンッと張る時ぐらいであろう)

しかし、これでは絶対に形試合に勝つことは出来ない。「あんな技が効くわけが無い」とか「あれのどこが空手か!?」、酷い時には「やる気があるのか!」などと罵倒されることになるであろう。
前述したように、形試合で勝つには、力を込め、スピードに乗せ、大きな気合いを入れ、迫力を出さなければ勝てないのである。
「何も無い空間を押して歩く」行為にも関わらず、力を入れる、
つまり、形競技は「頑張って見えない敵と戦っているパントマイム合戦」をしているに過ぎない。

これを読んで理解した皆さんは、空手とは何と無意味なことに時間を費やしているのであろうか、とお思いになる事であろう。
しかし、この現象は空手に限った事ではない。人間というのは、どういう訳か、力を出して、しんどいことをしなければ頑張った気がしないのである。その為、外的な抵抗がない時には、自分で抵抗を作り出し、これに対して力を出すことで自分が頑張っているという感覚を作り出していることが多い。
もし、今、自分が頑張って辛いことでもしんどいことでも、努力と精神力でくぐり抜けているぞ!!、と思っている方は、一度確認した方がいいかもしれない。
自分のしていることは「何も無い空間を押して歩く」事であるにも関わらず、内的抵抗によってしんどくて辛い、その割に進んだ距離は僅か、という状態になってないか?。

「何も無い空間を押して歩く」のである、ただただ普通に歩けばいい。すると今まで、苦労して何日も掛けて進んでいた距離も、僅か数秒で進めてしまうこともあるかもしれない。

「頑張る」という言葉には何らかしらの魔力がある。
「頑張っている自分」、それは本当に外的要因に対し力を出しているのか、
自分で自分に抵抗を作り、一人で頑張り、その実は少ない・・・
「見えない敵を相手に頑張ってるパントマイム」状態になっているのではないか?
頑張るという状況の時にはそれを確認しなければならないであろう。
自分で作り出した内的抵抗を、肉体的にも精神的にも、取り去り、ごく自然に「何も無い空間を押して歩」けた時、人は、より大きな可能性に気がつくのではないか。


極楽は 西にといえど ひがしにも
きたみちさがせ みんなみにある


以上、空手の「形」よりの発展的考察でした。






本日七五三

お参りが沢山ありました。

お琴の体験。

猫が人気。
タマ駅長をまねて、ねこ宮司なんてのも作ろうか。

毎年、人気の巫女さんの写真。
表情が固いです。
「人気の巫女さん」の写真、なのか、
人気の「巫女さんの写真」、なのかは不明。

2010年11月9日火曜日

陽明文庫・国宝展

筆の里工房の陽明文庫展に行ってきました。
近衛家に伝わるおよそ千年の歴史を感じる素晴らしいものでした。
当時の人たちの教養の深さにはただただ感服するばかりです。
やはり、本当に尊敬される人間の条件は、精神性にこそある、
それを再認させられました。
私には教養が皆無である。先人の知恵と感受性に敬するばかりである。

2010年11月5日金曜日

尖閣ビデオ流出

別にどうってことはありません。
今の政権には期待出来ませんので。
ただ、願わくば、もう何もしないで欲しい・・・

よく「日中交渉の落としどころ」などという言葉が飛び交ってますが、
尖閣問題の落としどころは、日本の領土であると中国に認めさせる以外ありえません。
経済は奪われても再生出来るが、領土は奪われたら戦争を起こす以外奪い返す方法はない。
残念ながら、領土問題とはそういうものです。
納得いかない人は、パレスチナ問題でも調べて頂きたい。

かつて下関戦争で和議交渉にあたった高杉晋作は、相手方の要求をほとんど呑んだが、
領土に関する要求は一切呑まなかった。領土を奪われることの恐ろしさを、
アヘン戦争を通じて、嫌と言うほど知っていたのだ。
鎖国状態であった日本人の方が、現政権よりよっぽど、国際感覚があったといえる。

結局、国家とは何か、という認識が無いのだ、現政権には。
国のトップが国家の解体を望んでいるのだからどうしようもない。
望むなら、何をすることもなく、速やかに身を引いて頂きたいものである。

2010年11月3日水曜日

明治節

今日は文化の日ですが、本来の意味は、明治天皇の御生誕日であることから、戦前までは「明治節」と呼ばれていた休日です。
本来、日本国憲法で制定されている休日は、祝祭日と言われ、読んで字の如く、祝いの日と祭の日を当てています。つまり、祝祭日は、決められた日に存在することに意味があり、日本の文化を象徴する日であるとも言えます。祝祭日に国旗を掲げる意味はここにあります。
その為、この日を勝手気ままに移動させるというのは、祝祭日の意味を無くし、ただの休日にした上、極めて人工的なものにしてしまうことに他なりません。
ハッピーマンデー法なるものは、経済優先・文化軽視の最右翼と言える悪法でありましょう。かつ、今の日本人の精神を反映したまさに象徴的な法律とも言えます(つまり日本人の文化・教養に対する精神性はここまで劣化しているとも言えるのです)。
祝祭日はそれぞれに日本に於ける文化・伝統・歴史を内包しています。ただの休みと片付けず、それぞれの意味と背景を知ることが、文化的厚みのある生活ではないでしょうか。

ちなみに、次の祭日の11月23日は勤労感謝の日ですが、本来は新嘗祭(にいなめさい)という豊穣感謝の祭を執り行う日です。全国の神社は勿論、皇居では天皇陛下が、御自ら、祭祀を執り行われます。