2009年5月24日日曜日

無知という罪


 この前、この2冊の本を衝動買いした。
 常々、私は本は欲しいと思ったその時に買うべし、と思っている。その時あるから、また今度お金に余裕を持って、と思っていたら、次ぎ来た時には、もう販売されてない事が多々ある。それから買おうと思っても、本の題名も著者も出版社も分からず、結局買う事なく終わってしまう事になる。すぐに読まないから、読む時間がないから、など言語道断の言い訳である。そのまま良い本など手に入れる事なく人生が終わってしまう。すぐ読まなくても、後になって役に立つ事など多々ある事。私も、買ってから10年経ってやっと読んだ本、しかも、人生を左右するような本だったということが、実際にあったことである。だから、欲しいと思ったら借金をしてでも買う事にしている。
 さて、それはともかく、何故、これらの本を購入したかというと、3月に神社の敷地に、山とも広場と言い難い場所が有り、そこを奇麗に下刈や枝打ち間伐を行って、参拝した子供たちが遊べるような空間に整備した。
 しかし、その場所には夏椿やボケの木など茶華道にも使え、景観の一助になるような木々を切ってしまっていたのだ。3月はまだ、新芽もなく、枝のみの木が多く、知らないものには、ただの雑木にしか見えない状態である。まったく、自分の無知さに、恥ずかしい思いばかりである。
 「無知」と言うのは、このように価値のあるものを平気で破壊してしまう、といういい例である。自分自身が反面教師となっていたのだ。
 実際、日本の至る所でこのような行為が行われているのであろう。植物だでなく、価値のある絵画、器、芸術、文章、建築物、様々な価値あるものが無知なものの手により破壊されているのだろう。
 私の神社にも様々な古文書、古物があるが、それは一見、汚い紙屑のようなもの、虫食いだらけの木の塊、壊れた神具、だったりするものが多々あるが、しっかりとした知識を持ったものが見ると重要なものであり、とてつもない価値があるものだったりする。
 また逆に、それこそ「鑑定団」などに出したところで実際に10円もしないだろう、手の平の1/4にも満たない木片がある。しかし、それはかつて神殿の屋根を覆っていた栗の木の破片であり、こけら葺き(現在は銅板葺き)であった重要な証拠品、歴史的遺品なのである。これが本当の価値である!!!価値とは金で判断するものでなく、そこに持つ物語こそ重要なのである。
 このようなものは知識の無い者にはただのゴミでしかない。
 しかし、それは文化の軽視であり、先人に対する侮辱であり、子孫に対する罪であり、人類に対する罪でもあろう。
 「無知」はどんなに重要なものであろうと、平気で一瞬にして破壊してしまう。そして、それは、今現在でも日本中で行われている。この世には、文化財に指定されていなくとも、とても重要な品というのはごまんとある。そして、それらは失われた時、初めて価値の大きさに気付かされる。しかし、それではもう遅いのだ!!
 価値あるものを守る為には知識を持たなければならない。
 今、多くの日本の優れた文化、それは物品に限らず、失われている。それは誰の気にも留められず。いいじゃんそんな細かいこと、安ければいい、手軽なほうが良い、何でもいい、などという軽いノリで。罪の意識は全くない、無知故に。
 我々は学ばなければならない、そして、児孫に伝える義務を負っているのだ。
 「学ぶ」という事はそれほど重要なものである。そしてさらに重要なのが「教育」である。
 私は、自戒の念も込めて、この本を衝動的に購入した。
 更に、自分の周りに於ける環境をより良くするために。そして、文化破壊を食い止める為にも。



ちなみに、武道論(歩行編)は、まだ続きます。暫くして再開します。

広島ブログ

2009年5月19日火曜日

研ぎ

本日晴天。日差しが強いので、昼から影で鎌と鉈を研いだ。
beforeafter
 かつては大工の弟子入りすると研ぎから始まったという。百姓でも毎日の鎌の研ぎは欠かせなかった。
 今はグラインダーなどを使ってすぐ研げるが、摩擦熱で鉄の強度が落ちるという。
 それをのけたとしても、やはり砥石で研いだほうが、その道具に対する愛着は確実に強くなる。そうして、手入れをした道具は大切に使う。昔の人はそうやって弟子に道具の大切さを教えたのであろう。これも、物に対する思い、日本人の心の文化であろう。
 だから、私は常に砥石を使う。

計五本研いだ。まだまだ未熟だが・・・

広島ブログ

2009年5月16日土曜日

武道論(歩行その5)

 さて、歩行に於ける武道性とは何か綴ってみようと思う。
 前回、図を以て、歩行とは「動歩行」と「静歩行」との2種類あると書いた。そして、「動歩行」を通常歩行と位置づけた。
 が、全ての人が、果たしてあの図の通り歩行を行っているのだろうか。否、そのような人間は皆無といっていいだろう。
 ここにこそ武道家と一般人との大きな違いがある。
 そこで、今回掲げた図を見て欲しい。ここでは「武術的歩行」と「間違った歩行」と分けてみた。ここでいう“間違った”とは武術的に見てという意味である。
 「間違った歩行」を見て分かるように重心がジグザグしている。一方、「武術的歩行」は一直線を描いている。
 これはどういうことか、一般の人が行っている通常よく見る「間違った歩行」は一旦軸足に重心を移した後、重心を前に移しながら反対の足を出しているのである。
 普通の人は、この“重心を使っている”ということに気付く事なく、無意識で「歩行」を行っている。その為、「歩行」という事は誰でも出来る当たり前の事と捉 えられ、「間違った歩行」を行ってしまっている。具体的には、がに股、内股、猫背など一般的に姿勢が悪いとされているものである。 
 一方、この重心の認識をもった人間は、歩行が如何に人間にとって重要かを知っている。その為、体力的消耗が少なく、しかも素早く動く方法ととろうとし、自然に胸を張り、背筋を伸ばす、いわゆる良い姿勢になるのである。そして、これを利用する事によって、重心をうまく操作し、転身、移動、静止を自然に行う事が出来るようになってくる、いわゆる無駄の無い動きがそれである。そして、武術家が、年老いて尚、姿勢が良い理由でもある。
 重心を自分の意思で動かしているかどうか、これこそが武術家と一般人とを隔てる大きな違いなのである。
 「歩く事それ即ち武道」言われる所以がここにある。

広島ブログ

2009年5月13日水曜日

福山でわしも考えた

 本日、福山に美術館と博物館に行ってきた。
 美術館は魯山人、博物館は広島県の神社の宝物展。
 このブログ一応文化がテーマなので、武道ばかりではなく、たまには、というわけではないが。 ところで、この魯山人、“器”のために、それに合わせて家から何から全て建て替えるなどという逸話を持ち、徹底した“おもてなし”を追求した人らしい。
 昔、私は絵の勉強をしながら、芸術とは何の為にあるのだろうと、悩んだ時期があった。絵を壁に掛けたからといって何が変わるわけでも無し、良い茶碗で飯を食べたからといって味が変わるわけでも無し、と全てに意味を感じなくなっていた。
 しかし、それは間違いで、絵を掛ける事によって、その部屋の空気を作り出し、茶碗の力で食物を演出する。つまり、芸術とは、「場」を作り出し、見る者に空間を与える。水の絵が掛かっていれば、そこに水の爽やかさを持ち込む事が出来、キュビズムのような一見風変わりな絵はその空間の全てを平面にしてしまうような力を持つ。そして、器が食を行う空間、つまり味をも作り出す。これは、一流料亭のメニューでもトイレで食べたらうまさが半減する事を、想像するだけで分かるだろう。器もいいものが味を作る事は可能である。人間は感情の生き物だ。そのことに気付いたのは、ここ2、3年のことである
 だからこそ、魯山人は、その“器”に支配されない為の建築、また、その“器”を埋没させない為の部屋を必要とし、その中でこそ食が生きてくると考えたのだろう。
 そして、この芸術の作り出す「場」は作り手の力量と共に、受け取り側の力量をも試されるのである。
 これは、武道に於ける相手の力量と自分の力量との差を構えによって見極める“観の眼”に酷似している。
 恐らく魯山人は芸術家としての“観の眼”を持った芸術の達人であったのであろう。
 また、福山美術館は福山城を取り込んだ見事な空間を作り出していたことにも感服し、なかなか充実した一日であった。
図録とパンフ
広島ブログ

2009年5月12日火曜日

武道論(歩行その4)

 さて、今回は二足歩行について詰めて論じてみたい。
 我々は人間がどのように歩いているか、右に歩行の原理を単純化した図を掲げてみた。
 人間の歩行を大別すると、図で示した通り、「動歩行」と「静歩行」とに分けられる。
 「動歩行」とは、通常我々が自然に行っている歩行である。「静歩行」は泥棒などが音を立てないように、抜き足差し足と歩く、いわゆる、「忍び足」である。
 この図を見てお気付きになられたであろうか。「静歩行」が重心を安定範囲内に置いているのに対し、「動歩行」が安定範囲から外に出しているのだ。これはどういう事か。
 前回、私はこの安定範囲から重心がはみ出ると倒れてしまう、と書いた。では、これでは倒れてしまうではないか。そうだ!「動歩行」とは倒れながら歩いているのだ!!これこそ二本足で立つという身体特徴を手に入れた人間の、不安定である事を逆手にとったコペルニクス的発想なのだ。
 人間は歩く時、必ず体勢を不安定にした後、足を前に進めている。その証拠に、人はつまずくとこける。つまずくという事は、自分の予想した場所に足を置く事が出来ず、安定範囲からはみ出た重心を支える事が出来なかったということである。柔道の出足払いという技は、これを利用したものである。
 つまり、人間は、自分の体を倒しながら、しかも倒れないように重心に合わせて足を繰り出す事によって、歩行という動きを成し遂げている。これこそが、ロボット開発に於いて、二足歩行を難しくした大きな理由の一つであろう。
 これに対して、「静歩行」は常に安定している。要するに、重心を安定範囲から出す事が無いため倒れるリスクを低くした歩き方となるのだ。足下が不安定なところなど用心しながら進なければならない時を想像して頂ければ、分かりやすいと思う。しかし、そのスピードは、動歩行に比べると、明らかに遅くなる。
 これである程度、人間の歩行についてイメージ出来たのではないのだろうか。
 次回は、この歩行から武術的身体操作について書いてみたい。
広島ブログ

2009年5月10日日曜日

武道論(歩行その3)

 二本足で立てる身体的特徴を持つ生物は人間のみであると書いたが、それでは二本足と四本足では、歩行に於てどんな違いが出てくるのか。
 右の図を見て頂きたい(図をクリックして頂きたい)。二本足と四本足の違いを分かりやすく図式化してみた。
 図の文章を読んで頂けたら分かると思うが、灰色の部分が大きいほど、重心の動きに対応しやすく、安定の幅が大きくなる(これをここでは安定範囲と仮に呼ぼう)。この安定範囲から重心がはみ出るとどうなるか、そのままの状態であれば倒れてしまう。
 さらに、一本の足を上げてしまえば、安定範囲は、人間の場合ならその片方の足の大きさだけとなるが、四本足の場合なら残りの三本の足の間となる。
 四本足の場合、常に広い安定範囲の中に重心を置いたまま足を前に前に踏み出せるが、一方、二本足の場合、足を前に出すためには、もともと狭い安定範囲から更に狭いところに重心を移動させ、倒れてしまう可能性を限りなく高くしなければならないことになってしまう。
 つまり二足歩行より四足歩行の方が、だんぜん安定感があるのだ。
 それでは二足歩行という安定感なく効率が悪い歩き方で、何故、我々人間は自然に歩行を行う事が出来ているのか。 
 二本足で歩くという事を更に追求していく


広島ブログ

2009年5月9日土曜日

武道論(歩行その2)

さて、少し間が空いたが、再び歩行について論じよう。
 二足歩行を行うには、まず、2本の足で立つ事が大前提である。そんなことは当たり前だ!、という声が聞こえそうだが、この2本足で立つ事が出来るということが如何に難しいか。この地球上でそんなことが出来るのは、人間ただ一種類なのだ。
 そんなはずは無い、類人猿や犬や猫、昔話題になったレッサーパンダの颯太くんでも二本足で立てるではないか!!
 確かにそうだ、しかし、その立てる時間といえば、人間とそれらを比べてみると、雲泥の差である。類人猿ですら2本足で1時間と立っていられるだろうか。ひきかえ、人間はというと、その気が有れば一日中でも立つ事が可能である。
 結局は骨格の構造が根本的に違うのだ。いくら2本足で立てるといっても、類人猿は基本的に4足歩行なのだ。つまり、二足歩行とは人間のみが日常で行える動作であり、動物の二足歩行は人間で言うところの逆立ち歩きのようなものなのだ。
 この二本足で立つ事と、四本足で立つ事が如何に違うのか、また、次に続けよう。

広島ブログ

2009年5月8日金曜日

読書感想(その1)


『沖縄伝統空手「手」TYIの変容
 野原 耕栄 球陽出版
この本は沖縄空手を中心に、沖縄武術「手」から世界のKARATEへの変遷の歴史、及び沖縄の歴史について詳しく書かれている。
 空手をするものにとって源流を知る上で非常に参考になる一冊であった。
 この著者自身、小林流系の昔ながらの沖縄伝統空手の八段、故に空手及沖縄への思いと知識は感服するものが有る。と同時に日本の空手界への不信感、伝統沖縄空手の存続への危機感は、我々日本で空手を修業するものにとって考えさせるものであった。
 そして、意外であったのは、寸止め空手と呼ばれる空手に対し疑念を抱いている一方、フルコン空手を代表する極真会館に対しての印象は良いものとして書かれている。というのも、沖縄で古くから行われている組手・カキダミシは、紳士協定により手による顔面攻撃、金的攻撃を禁止した上の直接打撃であったという。これはまさに極真ルールではないか!!極真空手黎明期、本土であれほど邪道空手、ケンカ空手と蔑まれていたものが、実は本家本元のカキダミシと同じであったという驚くべき事実。
 一方、昭和47年(1972)本土復帰により、沖縄に本土の空手が流入され、唖然と失笑のもとに迎えられたものが、寸止め空手であったという事実。
 そして、今や沖縄空手界を飲み込もうとし、沖縄空手の存続をも脅かしている全空連系寸止め空手。その上、組手だけでなく、形をも沖縄空手を蔑(ないがし)ろにするという。
 本流とは一体何か、邪道とは何か、考えさせられずにはいられない。
 本土で空手を修業するものには必読の一冊である。

広島ブログ

2009年5月5日火曜日

武道論(歩行その1)


「歩く事 それ即ち 武道」
 この言葉は、かの合気道の達人、塩田剛三先生の言葉である。
 我々は普段何気なく歩行を行っているが、実際にはものすごく難しい行為である。それは、ロボット開発に於てホンダのP3が発表されるまで、ロボットに2足歩行をさせることは不可能であるとまで言われていた事から、歴然としている。
 では、歩行とは一体何が難しく、また、それがどう武道とリンクしていくのか。
 このことは、詳しく書き出すと非常に長くなるので、日を追って少しづつブログに挙げていこうと思う。

広島ブログ

2009年5月4日月曜日

文化論を綴るにあたって

「感覚」このことを人に伝える事の如何に難しい事か。文化とは、すなわち、その国、民族、家庭、人などのもつ感覚の事ではないか。歴史観、美的感覚、道徳観、使命感、人生観などの積み重ね。
 今まで、私は、神職として日々を過ごしながら、芸術活動、空手研究を行い、そしてそれらを様々な方法で多くの人々に知ってもらいたいと活動してきた。
 しかしながら、その活動によって見てもらえるものは、結果であり、結論のみであるという現実に於いて、自分の中で何か釈然としないもやもや感を拭いきれないでいた。
 そんな時、以下のような文章に出会った。

『日常生活では基礎と基本を同義語として使っていると思いますが、な、な、なんとこれが違うのです。 〜中略〜 「論理から感覚」を導き出すのは難しいですが、「感覚から論理」を導き出すのは簡単です。同じことを表現しているのですが、順番があるということです。図(感覚)を基礎とすると、公式(論理)は基本となります。 〜中略〜 術は無形、技は有形、基礎は感覚(無形)、基本は論理(有形)ですので、言い換えると「基礎は術」「基本は技」となります。 ということは、どちらを先に教えるべきなのか、自ずと答えがでてきます。』
http://higaki.info/page008.html(武術上達論 桧垣源之助)より

 これを読んだ時、なるほど、と思った、結局私は、論理を人に伝えようとばかりしてきたのかもしれない。それなら感覚を伝える手段を考えてみよう、と。
 感覚を伝えるには、その人間に於ける過程を見せる事で、ある程度可能になってくるのではないか。そこで、どこまで出来るか分からないが、感覚というのを伝える手段の一つとして、現代的にブログというのも有りかもしれない、と考えた。
 さてさて、文才の無い私の事、拙いもので、このブログでどこまで出来るか不明では有るが、遊びの一つとしてでも、やってみよう。

テスト

はじめまして。