2009年11月2日月曜日

七五三について

最近この時期になりますと、七五三のことについて、お尋ねになられる方が多いので、七五三についてまとめてみた。

 「七五三」の祝いは、天和元年(1681年)旧暦11月15日に徳川幕府第5代征夷大将軍、徳川綱吉の長男・徳松の健康を願ったのが始まりだとされ、本来、主には関東地方で行われる行事であり、戦後全国に広まった風習である。
 この旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日(旧暦では必ず15日が満月となる)に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。
 七五三の年齢については、3歳は髪を伸ばす「髪置(かみおき)」、5歳は初めて袴をつける「袴着(はかまぎ)」、7歳は、それまでの紐付きの着物に代わって、本仕立ての着物と丸帯という大人の装いをする「帯解(おびとき)・紐落(ひもおとし)」の名残りであると言われている。また、三歳=言葉、五歳=知恵、七歳=歯を神から授かる事への感謝とする地方や、三歳、五歳、七歳は子供の厄として、七五三を一種の厄祓としている地方もある。
 そして、この行事が行われた最も大きな理由の一つは、かつて乳幼児が成人するまでの生存率はきわめて低い事から、我が子の生存を祝う節目として定着したものである。
 つまり、七五三とは、子供の成長を当たり前と考えるのでなく、本来は亡くなる可能性を有していたにも関わらず、無事にその年齢まで成長したことへの、また、生かされていることへの感謝と、今後の子供の健やかな成長への願いであるのです。
 「生きている」ということは当たり前のことではない!との考えです。今現在では最も忘れられていることではありますね。

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2009年10月27日火曜日

恥ずかしきかな「ハロウィン」

わが家に祀られる「亥の子石」
 世の中、「はろうぃん」などと言って、浮かれ、腑抜けた格好をしている姿を見ると、植民地国家日本の情けない姿を露呈しているようで、とても恥ずかしい思いにさせられる。

ところで、日本にも同じような風習があるのをどれだけの方がご存知か?
10月の亥の日に行われる「亥の子祭」がそれである。
wikipediaから拝借した文だが以下のとおり。
「旧暦10月の亥の日の夕方から夜にかけて、地区の子供たちが集まり一軒一軒を巡って、歌を歌いながら平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を上下させて地面を搗く。〜中略〜亥の子のための歌が使用される。〜中略〜。子供たちが石を搗くとその家では、餅や菓子、小遣いなどを振舞う。振る舞いの無い家では悪態をつく内容の歌を歌われることもある。」

写真はわが家に残る亥の子石である。おそらく真ん中のくぼみに縄を巻き付けて行事が行われていたのであろう。
 これを機に、「はろうぃん」などと、伝統文化のことなど考えない商売人の欲望の為、文化破壊を推進するのではなく、今一度我が国の民衆行事を見直す機会にするべきではないかと思うのだが。

ちなみに亥の子祭の意味もwikipediaより拝借して。
「日本の宮中行事に取り入れられ〜中略〜次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる。」

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2009年10月21日水曜日

明治41年発行 修身教科書

宮の蔵から面白いものを見つけた。
「報徳修身教科書」題材は二宮尊徳翁の生涯
明治41年2月1日発行
中身は二宮尊徳の孝行、勤勉、私心無き奉公など、封建色の強いものである。
しかし、何故各学校に二宮金次郎像があるのか、これを読めばよく理解出来る。
最近ではあの銅像が何者であるかすら、わからない生徒もいるのではないだろうか。

恐らくこれを見て色んな意見ある者が現れようが、道徳の必要性が叫ばれる昨今、今一度、見直されるべきものではないか。
少なくとも私はこれを読んで、こんな人間になりたいものだと思った。
近年は、ともすれば先生に反抗する不良のほうがまともな人間になれると、まことしやかに思っているものもいるように感じられる。勿論、そういう人間に面白みがあることは、否定するものではない。そういう人はお話の中では大いに活躍してもらえば結構だ。
しかし、やはり教育の場では目標となる人間は崇高たる精神を持ったものでなければならないように思う。

この、教科書を使っていたのは、私の曽祖父の義理の兄弟(曽祖父は婿養子で礒部家に入った)であったようだ。
優秀な方で、本来礒部家の家督を継ぐ人だったが、師範学校卒業後、結核の為、夭折されたと聞いている。その時、枕元には、辞書が開かれた状態で置かれてあったそうだ。
歴史の重みを感じるエピソードである。

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