2010年11月14日日曜日

「頑張る」というパラドックス

「頑張る」、このことに対して疑問を持ったことのある方はおられるだろうか?
「頑張る」に対する疑問とは何か?

実は、私は最近この「頑張る」という行為に対し、
非常に疑問を感じ出したのである。
どういうことか?
あなたは「今、すごく頑張ってますっっ」と思っている時、本当に頑張っているのか?
実は、それは勘違いに過ぎないのではないか?
「失礼な!!」と思われる方もいらっしゃることだろう。

しかし、最近私は思うのだ、「それは、本当に外的な圧力による頑張りなのか?
自分で作り出した圧力に対して一人で頑張っていると思い込んでいるのではないか?」

以前このブログで、私は、突きを打つ時、力を抜けば抜くほど威力の上がる突き、というのを説明したことがある。これは、本当に力がゼロになっているのではなく、屈筋、つまり、「突き」という腕を伸ばす行為と逆の、曲げる筋肉の力を抜くことによって、抵抗なく腕を伸ばせるようにすることである。
説明だけ読むと、何だ当たり前じゃないか、と思うが、実はこのことが出来る人間というのは、特別な訓練を受けた者か、持って生まれた天性の才能に恵まれた者に限られている。

例えば、何もない空間で、手を前に出し、壁を押すような形で前に進んだとする。
皆、ただ前に進むだけであるだろうし、この行為を汗水垂らして行う者など皆無であろう。
しかし、ここで「これは重い物を押すトレーニングです。力を込めて頑張って前に進んで下さい」と指定したとたん、恐らくほとんどの人が全身に力を込めて、歯を食いしばって行うのではないであろうか。
これこそ人間の身体の「頑張る」ことへの勘違いである。

そこには何もないのだ。力を込める必要性などどこにもない。
しかし、体は経験上、こう思っている。力を入れること、つまり、力むことが「頑張る」ことであり、実際に役に立つことであり、力を出さないことは、怠け者のやることで何の用もなさないと。だから、何も無い空間でも力を入れてしまう。

力を込めるも何もそのまま進んだ方がいいし、物を押すトレーニングなら、実際に重い物を押す方が良い。それも如何に楽に押せるかコツを探すように。だから、この「何もない空間で力を込めて進む」トレーニングなど、物を押すという行為に対して、百害あって一利もないのである。

しかし、これをくそまじめに真剣に取り組み、なおかつ、競技にまでしてしまったモノがある。
それが空手の「形」である。
恐らく、空手経験者の方は、一度は、いや、耳にたこができるほど、師範や先輩に言われたのではなかろうか「形を行う時には相手を想定して、倒すつもりで行え!!」と。そして、精一杯力を込めて突き蹴りを繰り返してきたのではないだろうか。
空手の形は、力を込め、スピードに乗せ、大きな気合いを入れ、迫力が出れば出るほど、素晴らしい形であると評される(勿論、肩や背中に力が入り過ぎだとか注意を受けることはある)。
実は、これこそが、「何も無い空間を押して歩く」行為にも関わらず、力を入れて如何に本当に壁を押しているか見せる行為である。
この勘違いにより、空手の形の多くはパントマイムと化しているのである。

ある物体が進む時、外的な抵抗がない限り、ただひたすら進むだけである。
外的な抵抗、例えば壁などに、ぶつかった時初めてその物体に加えられたエネルギーがはっきりする。だから、進んでいる物体に外的な抵抗がなければ、人間はその物体のもつエネルギー(衝撃力)を理解し得ない。
例えばこんな経験は無いだろうか?TVなどでボクサーが行うシャドーを見てそれがどれくらいの強さなのかは分からなかったが、ミットやサウンドバッグなどを叩く姿を見て初めてその威力の凄さを理解したという。
また、ある物体がゆっくり目の前を通り過ぎた時は何とも思わないが、ドスンッと地面に叩き付けられ、それが砲丸の球であった事を理解した時に、初めてその恐ろしさに気付くという。
(空手の試割りがそれである。空手家が何枚もの瓦や、何本ものバットを折ることによって、初めて技の威力を見る者に知らしめることが出来る、実際に出来るまでは、特に空手を知らないものは、その技に何枚もの瓦を割るほどの威力があることを理解出来ない。)

結局、人間が物体のエネルギー(衝撃力)を実感するのは、物体に外的な抵抗が加わった時のみである。

だから、空手の「形」は、その技の威力を目に見えるようにするため、自分の中で抵抗を作り、衝撃力を演出しているに過ぎないのである。その為、「形」のまま技を繰り出すと相手には全く通じない技となってしまい、形と組手は別物、という結論しか出ないのである。
当たり前である。一生懸命、アクセルを踏みながらも、同時に自分でブレーキも踏み込んでいるのであるから。

実際に使える「形」は、「何も無い空間を押して歩く」行為が基本とならなければならないのであるから、全く迫力もなく、衝撃力も見る者に伝わらないものにならなければならない。(出るとしたら、伸びきった腕や脚が急激にビンッと張る時ぐらいであろう)

しかし、これでは絶対に形試合に勝つことは出来ない。「あんな技が効くわけが無い」とか「あれのどこが空手か!?」、酷い時には「やる気があるのか!」などと罵倒されることになるであろう。
前述したように、形試合で勝つには、力を込め、スピードに乗せ、大きな気合いを入れ、迫力を出さなければ勝てないのである。
「何も無い空間を押して歩く」行為にも関わらず、力を入れる、
つまり、形競技は「頑張って見えない敵と戦っているパントマイム合戦」をしているに過ぎない。

これを読んで理解した皆さんは、空手とは何と無意味なことに時間を費やしているのであろうか、とお思いになる事であろう。
しかし、この現象は空手に限った事ではない。人間というのは、どういう訳か、力を出して、しんどいことをしなければ頑張った気がしないのである。その為、外的な抵抗がない時には、自分で抵抗を作り出し、これに対して力を出すことで自分が頑張っているという感覚を作り出していることが多い。
もし、今、自分が頑張って辛いことでもしんどいことでも、努力と精神力でくぐり抜けているぞ!!、と思っている方は、一度確認した方がいいかもしれない。
自分のしていることは「何も無い空間を押して歩く」事であるにも関わらず、内的抵抗によってしんどくて辛い、その割に進んだ距離は僅か、という状態になってないか?。

「何も無い空間を押して歩く」のである、ただただ普通に歩けばいい。すると今まで、苦労して何日も掛けて進んでいた距離も、僅か数秒で進めてしまうこともあるかもしれない。

「頑張る」という言葉には何らかしらの魔力がある。
「頑張っている自分」、それは本当に外的要因に対し力を出しているのか、
自分で自分に抵抗を作り、一人で頑張り、その実は少ない・・・
「見えない敵を相手に頑張ってるパントマイム」状態になっているのではないか?
頑張るという状況の時にはそれを確認しなければならないであろう。
自分で作り出した内的抵抗を、肉体的にも精神的にも、取り去り、ごく自然に「何も無い空間を押して歩」けた時、人は、より大きな可能性に気がつくのではないか。


極楽は 西にといえど ひがしにも
きたみちさがせ みんなみにある


以上、空手の「形」よりの発展的考察でした。






2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

やあ、東京の者だよ。

頑張れって言われて力を入れてしまうのは仕方がないことだと思う。
頑張るって言葉は、「普段以上の力を出す」というニュアンスで使われるんじゃないのかな。
そうだとすると、頑張る要因が外的・内的であるか否かは、直接関係ないと思う。

ところで、普通の人が「普段以上の力を出せ」と言われるとどう考えるかというと、言葉そのままに力を入れればいいと考えるのじゃないかな。
本当に普段以上の力を出すためには、身体はリラックスして無駄な力を抜き、必要な力だけを出すようにすることが大切なのだが、それを分かっている人は少数派だし、また、それを頭で分かっていても現実にできる人は少ない。
だから、問題は、「頑張る」って言葉にあるのじゃなくて、意識と身体の鍛錬が足りてないってだけじゃないかなと思うのだ。

ついでに言うと、それを引き出すためには、「頑張れ」って声をかけるのではなく、「リラックス」とか「最小限の力で」とか声をかけるから、普通の人にとっては「頑張る」という言葉に矛盾はないと思う。

礒部春峰 さんのコメント...

コメントに気付くのが遅くなりました。

どこまで、論拠が伝わったか、
私の文章力では些か
怪しいものではありますが、
ひとまず、こんな長文読んで頂き
ありがとうございます。